【補足】帝銀事件について

事件概要

1948年1月26日、帝国銀行(今の三井住友銀行)椎名町支店に東京都の腕章をした男が現れ、占領軍の命令で赤痢の予防薬を飲むよう告げ、行員らに毒物を飲ませ、現金と小切手を奪い逃走したという実在の毒物殺人事件。

当時、捜査本部は旧陸軍関係者を疑うが、やがて画家・平沢貞通の名が浮上し、自白以外の物的証拠がない中で死刑判決が下った。

最終的に平沢の死刑は執行されず、1987年に95歳で獄死している。

現在でも冤罪との指摘があり、謎が残る事件である。

 


平沢を犯人とする根拠と反論

平沢を犯人とした根拠に、以下にあげる6つがあげられているが、それぞれに反論がある。

また、平沢犯人説を否定する主張の多くは、毒物への専門性をあげている。

 

①「厚生技官 医学博士 松井蔚 厚生省予防局」の本物の名刺

 帝銀事件以前の1947年、閉店直後の安田銀行荏原支店に上記「松井蔚(しげる)」の名刺を持った人物が現れ、帝銀事件同様の手口で行員に薬を飲ませるという事があった。幸い死者は出なかった。

名刺が本物だったため、偽技官は松井と名刺を交換した者で、その人物が帝銀事件を起こしたと目された。

平沢は以前、松井と名刺を交換しているも、逮捕時は松井の名刺を持っていなかった。

 

【反論】

平沢は名刺が入った財布ごと盗まれたと主張、実際に盗難届が出されていた。

 

②小切手の筆跡

 平沢は事件発生時、現場付近を歩いていたと主張するも、証明できなかった。

また、帝銀で盗まれた小切手は事件2日後、安田銀行板橋店で現金化されていた。

小切手の裏書と平沢の筆跡鑑定が行われたところ、

「7名の鑑定人がその同一性または酷似性を認めているところで、特に高村鑑定人が木篇の縦棒に節のある特徴を把握しての個性鑑定には動かし難い信憑力がある」とされた。

 

【反論】
筆跡鑑定で、慶応大学の伊木鑑定人は平沢の筆跡を否定。

 

③事件当時のアリバイ

事件当日の午後1時ごろ、平沢は丸の内にある船舶運営会に娘婿の山口某に会う。

このことは事務員広瀬正子によって確認されているが、帰ったか時刻は曖昧。

広瀬は2時にはもういなかったと言っているが、正確な時間は証言していない。

平沢は山口と会い、広瀬の証言によれば30分程度会話を交わして退出したという。

運営会を去った時間さえ確認されれば、平沢のアリバイの成立、不成立が確認できる。

これらの人の証言は検事側、弁護側の両者に対して行われた。

 

【反論】

証言によると、平沢貞通が会を訪れた時間も、辞した時間も、まちまちで、更に証言後の変更などがある。

 いずれにしても弁護側は平沢が会を辞したのは早くとも2時25分であり、丸の内から椎名町の銀行に至るのは不可能と判断し、アリバイを主張、広瀬の「2時には既にいなかった」という証言を否定する。

 これに対し、検察側は、広瀬の「2時には既にいなかった」という証言を重視し、遅くとも2時に会を辞したとすれば充分に帝銀椎名町支店に、事件発生時の3時20分には到着可能である、とアリバイを否定する。

そしてこれは平沢貞通の自供と一致しているという。

 

④詐欺事件の前科

過去4回、銀行を相手にした詐欺事件を起こしている。

 

【反論】

前科により、単純に被告人を有罪と断定することはできない。

 

⑤出所不明の金

事件直後に被害総額とほぼ同額を預金しており、その出所を明らかにできなかった。

この預金は春画を描いて売った代金とする説もあり、裁判官、検事は平沢に尋問したが、彼はかたくなに否定した。

しかし、死刑確定から約8年後、養子・平沢武彦氏の実父、初代「平沢貞通氏を救う会」事務局長で作家・森川哲郎氏に

 

【反論】

「実は秘画(春画)12ヶ月を描いた金です」と告白している。

預金がこの春画の代金であるかは現在も不明だが、小樽の親族曰く、終戦後は生活に困窮し春画をよく描いていたという。

実際、2000年に平沢が描いたと思われる春画も発見されている。

 公判時、本人が春画代金説を否定したのは、画家としての名誉や画家生命を守ろうとしたからではないかとされている。

 

⑥モンタージュ写真との相似

このモンタージュ写真は、目撃者の記憶から犯人の顔形、目鼻立ちが似ている写真を合成した手配写真である。

日本では帝銀事件で初めて、この捜査方法が採用され、全国各地から投書や密告が警視庁にされた。

平沢もこのモンタージュ写真に似ているとされた。

 

【反論】

 モンタージュ写真はあくまで既存の写真の継接ぎにすぎぬため、精巧さに欠けるといわれている。

更に、写真ゆえのリアルさからイメージが膨らまず、少しでも印象が違うと判断されると「別人」とされかねない危険性もあった。

そのため、現在の犯罪捜査手法ではあまり見かけない。

 


毒物の謎と専門性

司法解剖や犠牲者の吐瀉物、茶碗に残った液体の分析が、東京大学と慶應義塾大学で行われた。

しかし、液体の保存状態が悪く、青酸化合物であることまでは分かったものの、東大の古畑種基と慶大の中舘久平の鑑定が食い違い、正確な鑑定結果は出ていない。

しかも、青酸化合物は分解が早く、二酸化炭素に反応すると無害な炭酸カリウムにどんどん変化するので、取扱いが難しい。

更に、それを行員にのませる前に、その毒物を自分自身が、行員が飲んだのと同じ容器に入った薬を試飲して信用させている。

以上の点から、犯人は薬学の専門知識を有している必要があると指摘され、それが平沢犯人否定説の主張の中核になる。

 ちなみに、現在は事件に使われた毒薬について以下3つの説がある。

 

 

①青酸カリ

 ただし、即効性があるため、事件当時の状況に当てはまらないという指摘がある。

 

②アセトシアノヒドリン説

 当時、読売新聞の記者が陸軍9研でアセトシアノヒドリン(青酸ニトリル)という薬を開発していた事実を突き止める。

即座に威力を発揮する即効性の青酸カリに対して、アセトシアノヒドリンは飲んで1分から2分ほどで効果が現れる遅効性であり、遺体解剖しても青酸化合物までしか分析できないことが判明したが、突如、警察の捜査が731部隊から大きく離れた時点で、報道も取材の方向を転換せざるをえない状況になり、731部隊に関する取材を停止した。

そして1985年(昭和60年)、GHQの機密文書が公開され、

 

・犯人の手口が軍秘密科学研究所が作成した毒薬の扱いに関する指導書に一致

・犯行時に使用した器具が同研究所で使用されていたものと一致

・1948年(昭和23年)3月、GHQが731部隊捜査報道を差し止めた。

 

以上3つの事実が明らかになる。

ただし、事件では少なくとも5分は経過して効果が出たとされており、アセトシアノヒドリンであっても疑問点は残る。

 

 

③バイナリー方式説

 安定した(毒性を持たない)シアン化物と、その成分を毒性化する酵素の2つの薬を使用したという説。

シアン配糖体は身近な食用植物に含まれているので入手が容易。

また、これにより発生するのはシアン化水素で、体内の水分と結びつくことでシアン化水素水溶液となる。

このシアン化水素は一般に入手可能なシアン化化合物より遥かに毒性が強い。

 

 この説は、従来の731部隊犯説を大きく覆すもので、一定の説得力があった。

犯人が第1薬を平然と飲んだこと、他に失敗した例があること、後に米軍がこれを研究し実用化の段階まで進めていることなど。

 

 提唱者でジャーナリストの吉永春子の主張は、731部隊とは直接関係がない米軍による人体実験である、というもの。

実際、日本ではこの分野の化学兵器の研究は行われておらず、酵素の研究が進んだのは戦後のことである。

ただし、この説でも、この時点では酵素の研究がそこまで進んでいたのか、人体内での反応が安定して起きるのか、また、容器に使われた茶碗からは青酸化合物が検出されていない理由はどうなるのか、という疑問が残っている。

 


以下、帝銀事件について、松本清張の作品


小説帝銀事件

松本清張の作品。1961年初版。実際に戦後の混乱期に起きた「帝銀事件」について独自の視点で解く。

清張は膨大な資料をもとに、占領期に起こった事件の背後に潜む謀略を考察。

本書では平沢犯人説を否定、捜査段階でGHQの圧力があったのではないかと推理する。

 

あらすじ

R新聞論説委員・仁科俊太郎は、ホテルで会った元警視庁幹部・岡瀬隆吉との会話中「あの時は、アンダーソンがね……」と彼が漏らし後悔の色を見せて話題をずらしたことに興味を抱き、資料を取り出して帝銀事件のことを調べる。

アンダーソンとは、GHQで防諜部門を受け持ち特務機関を作り、占領当時の米軍の犯罪時には必ず横やりを入れていた人物である。

 

 帝銀事件による死亡者12名というのは、個人による殺人事件では当時、最悪の人数だった。

東京都防疫班の腕章をした男が、集団赤痢の予防薬と偽って青酸化合物を飲ませ、現金16万円や小切手を奪った事件である。

警察は当初、旧陸軍731部隊関係者を中心に捜査していたが捜査は行き詰まり、さらにGHQによる旧陸軍関係への捜査中止が命じられた。

 

 残された名刺より犯人を追いかけていた捜査班が8月21日、テンペラ画家の平沢貞通を小樽市で逮捕した。

平沢は一度犯行を自供するも、その後は否認。

1950年7月24日、東京地裁で求刑通り死刑判決。1951年9月29日、東京高裁で被告側控訴棄却。

1955年4月6日、最高裁で上告が棄却され、刑が確定した。

 しかし仁科は、平沢貞通の捜査記録、検事調書、検事論告要旨、裁判記録、精神鑑定書、被告人手記、弁論要旨から、薬学知識がない平沢に犯行は不可能で、真犯人はやはり薬学に精通した旧軍関係者ではないかと推理する。

 

清張の主張と、それをめぐる批判

 小説帝銀事件では、GHQから旧陸軍関係への捜査中止命令があったのではないかと指摘されている。

実際、1948年3月、GHQが731部隊捜査報道を差し止めた経緯もあるため、研究成果を引き渡す見返りに、東京裁判で戦争犯罪人としての追及を免れた関係者がおり、当局が守られねば秘密を有していたから、との見方がされている。

 

 一方で、当時の捜査本部で名刺班に所属していた刑事・平塚 八兵衛は

「一部に、捜査本部が特務機関を捜査してたのが、一挙に平沢に転換した、といわれたが、それは捜査の実態を知らねえからだ。吉展ちゃん事件のときもそうだったが、必ず捜査内部の対立があるもんだ。それを外部に公表できねえから、誤解されるわけだ」

と、捜査本部は最後まで旧陸軍の特務機関筋も捜査していたと証言し、捜査中止を否定している。

 

なぜ、平沢が有罪になったのか

 警察により平沢は生存者に面通しされたが、この時、この人物だと断言した者は一人もいなかった。しかも、逮捕根拠も曖昧だった。

そうした中でも平沢が起訴されたのは、自白があったからである。

 

 しかし、12月20日より東京地裁で開かれた公判において一転、平沢は自白を翻し無罪を主張した。

そして、拷問に近い取り調べの末の自白ということが明らかになるも、1950年7月24日、東京地裁で一審死刑判決。

1951年9月29日、東京高裁で控訴棄却。1955年4月7日、最高裁で上告棄却、5月7日、死刑が確定した。

のちに強引に自供を引き出した点と、平沢が狂犬病予防接種の副作用によるコルサコフ症候群の後遺症としての精神疾患(虚言症)を患っていた点により、供述の信憑性に問題があったと再審請求がされるも、いずれも実現しなかった。

 

 なぜ、平沢が有罪になったのか、小説帝銀事件では該当事件が「旧刑訴法による最後の事件であった」からと指摘する。

旧刑訴法というのは1948年までの刑事訴訟法を指し、容疑者の自白に重きを置かれていた。

もし、「自白法則」により自白の証拠能力に制限を設けた新刑訴法(現在)が適用されていれば、平沢は当然無罪になる可能性がある。

そのため、作中で主人公・仁科は「死刑とか無罪とかというような被告」には「新とか旧とかの人間の引いた線がある筈はない」、「証拠第一の新刑訴法の精神で判決すべきではないか」と述べている。

 

 平沢の死後も養子・武彦氏と支援者が名誉回復の為の再審請求を続け、1989年からは東京高等裁判所に第19次再審請求が行われていたが、養子の武彦は2013年10月1日に亡くなっているのが発見され、この為、2013年12月2日付にて東京高等裁判所が「請求人死亡」を理由に第19次再審請求審理手続きを終了とする決定を下した。

その後、2015年11月24日、平沢の遺族が第20次再審請求を東京高裁に申し立て、今もなお明確な回答は出ないままである。

 

【参考】

・松本清張『小説帝銀事件』

・松本清張『日本の黒い霧』文春文庫

・佐々木嘉信(著)・平塚八兵衛(述)『 刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』新潮社

・吉永春子『謎の毒薬―推究帝銀事件』講談社

・中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」-法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』東京図書出版会

・平沢貞通を救う会「帝銀事件ホームページ」

・寺崎嘉博『刑事訴訟法』成文堂

・井上 正仁『刑事訴訟法判例百選』有斐閣

・『判例六法』有斐閣