走れメロス

おまえには、わしの孤独がわからぬ――

 あらすじ

 羊飼いメロスは、妹の婚礼準備のため、シラクスを訪れる。

しかし都市にかつての活気はなく、不審に思い市民に何事か問う。

市民の老人は、都市を支配する王・ディオニスが人間不信に陥り、処刑を繰り返しているとメロスに教える。

 メロスは激怒し、暴君の殺害を決意する。

だが王城に侵入したところを、衛兵に捕らえられ、処刑される事になる。

メロスは妹の婚礼の為、シラクスで石工をする親友・セリヌンティウスを人質にすることを条件に、王へ3日間の処刑猶予を願い出る。 


王はメロスが再び戻って来るはずはないと考える。

だが、セリヌンティウスを処刑し、人を信じる事の馬鹿らしさを証明するのも一興と、メロスの猶予を許した。

 メロスは妹の婚礼の為、友を助ける為、走る。

 

原作

作者:太宰治(1909~1948)

初出:1940年

   文芸雑誌『新潮』5月号

収録:『女の決闘』河出書房(著作権消滅により青空文庫にて公開されている)

 精神的に安定していた頃の作品。

井伏鱒二の紹介で結婚、『女生徒』が川端康成に絶賛され、原稿依頼が急増、生涯で一番穏やかで充実していた。

その後は、女性関係の縺れが恐ろしいことになる。

 

 本作は、古代ギリシャの伝承と、ドイツのフリードリヒ・フォン・シラーの詩をもとに創作された話である(後述)。

また、太宰の友人・檀一雄によると、熱海で宿代が払えず、檀を宿代のかたに、太宰が金の無心に奔走した経験も創作の発端だという(尚、太宰は戻らず井伏と将棋を指していた)

 


もとの伝承

 比較文化学者・杉田英明曰く、太宰がいう「古伝説」とは、古代ギリシャのピタゴラス派(後述)の教団員の団結の固さを示す逸話として発生したものだという。

 

 杉田が伝承初期の一つとして挙げる『ピタゴラス伝』(哲学者・イアンブリコス著)で、ディオニュシオス2世が治めるシチリア島のシュラクサイを舞台にした話がある。

話は、のちにコリントスに追放されたディオニュシオス2世が、体験談としてアリストクセノス(哲学者)に語ったものとされている。

メロスとセリヌンティウスにあたる人物は、ピタゴラス派の教団員ダモン(デイモン)とフィンティアス(ピシアス)になる。

尚、王は「わしも第三の男として友情に加えてほしい」と頼むが、拒否される。

また、フィンティアスやダモンの深い心理描写はなく、最後にフィンティアスが許されたかどうか明らかにされていない。

 

 一方、『世界史』(歴史家ディオドロス・スィケロス著)にあるそれら伝承(『ピタゴラス伝』と独立して成立)は、物語性が強い内容で、フィンティアスが刻限ギリギリに登場するなど、『走れメロス』に近い。

「わしも第三の男として友情に加えてほしい」というセリフは、『ピタゴラス伝』と共通、以後シラー、太宰まで伝承されている。

 

 後世、『著名言行録』(ウァレリウス・マクスィムス著・1世紀)により文学的装飾が施される。

そして『説話集』(ヒュギヌス著・2世紀)では、フィンティアスがモイロス(ドイツ語圏でメーロス)、ダモンをセリヌンティオスに名前を変更、ピタゴラス派の団員という設定を消去。

また、3日間の猶予、妹の婚礼、暴風雨による川の氾濫を追加し、処刑方法を具体的に磔刑にした。

この『説話集』を参考に、シラーが詩を創作した。

 

 伝承はギリシャ・ローマで広がり、設定や人物を変えながら中東アラブ世界に広まる。

『歌謡集』(イスファハーニー著)に中東アラブ世界における初期の形が見られ、『千夜一夜物語』でも「ウマル・アル=アッターブと若い牧人との話」(第395~97話)として残されている。

 

 やがて伝承は、ヨーロッパに流入し復活する。

杉田曰く、ヨーロッパでの復活は14世紀以降と思われ、前述した『著名言行録』がキリスト教の僧侶が説教を行う際の手引きとして活用されたことが大きいと述べている。

そして1799年、シラーの「人質」という詩で発表された。

 

 シラーの詩は、独文学者・小栗孝則が1937年に翻訳した『新編シラー詩抄』(改造文庫)の中で発表される。

太宰はこの翻訳を参考にしている。

ちなみに、明治初期に幕末を舞台に伝承を翻案した作品があり、この伝承は青少年の道徳心を育てることを目的に学校教育に採用、広く読まれた。

太宰が使っていた高等小学校1年生の国語の教科書にも「真の知己」のタイトルで収録されている。

また、児童文学者・鈴木三重吉は「デイモンとピシアス」のタイトルで1920年に『赤い鳥』に発表している。

 

【解説】ピタゴラス派とは

 古代ギリシャ、哲学者・ピタゴラスが創設した宗教結社。ピタゴラス教団ともいう。

数学・音楽・哲学の研究を重んじ、古代ギリシャのオルペウス教の影響から輪廻転生の考え方を有す。

 また、原始共産制を敷き、財産を共有することを結社に入る第一条件としていた。

そのため、構成員たちは共有財産のもと共同生活を行い、強い友愛の絆で結ばれていた。

『走れメロス』のもとになった伝承は、ピタゴラス派の教団員の結束を意味する美談として語られていた。

 


原作とスケキヨ版の違い

 ミュージカル風のエンタメを目指し、多くの点で加筆と省略がされている。

 

 ・ 主人公を暴君ディオニスに変更、視点をシラクス側で固定

 ・ メロスの動向に関して全カット

 ・ 3日目の悪天候について省略(川の氾濫という表現でとどめる)

 ・ メロスを襲う山賊を、明確に王の差し金とする

 ・ 処刑を免れた以降の話(殴りと抱擁、王の改心、メロスの裸)をカット

 


なぜメロス達を赦したのか

 心の底では「人を信じたい」と思っていた、というのが私の考えである。

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ」と言及している事から、人間不信は王に就いて以降。

少なくとも2年前までは「人を信じていた」ということになる。

 原作で語られる通り、人間不信のきっかけは妹婿との事であるが、それが謀反だったのか、単なる誤解だったのかは定かでない。

いずれにせよ、王は孤独になる。

 【参考】処刑順について面白い考察があったのでご紹介

     残虐?な王の事情を考える 走れ!「走れメロス」~教科書定番教材を楽しく

 ディオニスは王としては優秀で真面目だったと思われる。

自分の王位を守ることは、良くも悪くも国を安定に維持できる。

それを分かっているから、先回りして華美な生活を制限していたといえる。

ただ、それが行き過ぎて支障が出てしまうのだが。

 喜々として処刑をしている様子はないので、そうした神経をすり減らす日々から「解放されたい」と心が向いていたといえる。

ただ、その弱味を簡単に見せる事は為政者にとって死に繋がる上、王としてのプライドから自分が行き着いた生き方や考えを、簡単に変えることに抵抗があったのだと思われる。


 だから、メロスとセリヌンティウスにより、誰もが納得できる形で「信愛」を示された時、初めて安堵して「友情に加えてほしい」と心情を吐露し、請う結果になったと思われる。

もし友情に憧れがなく、本当に愚かな行為だと心から思う人間であれば、王の責務の一環で規則に逆らう違反者メロスを処刑するか、自分の意にそぐわない者たちへの見せしめとして二人とも処刑したであろう。

民衆の支持を集めたいだけなら、二人を赦すだけにし「友情に加えてほしい」とは言わないと思う。

 尚、ディオニスのモデルとされているディオニュシオス1世は、血統に依らず、身分を超えて王位についた僭主である。

古代から、残虐で猜疑心が強い、執念深い最悪の暴君のひとりと見なされていたが、能力のある人物だったのは確かだ。

 

メロスを襲った山賊は、王の命令を受けていたのか

 王の命令ととる事も、単なるメロスの決め付けと見ることも出来る。

王を猜疑心が強い者とした時、妨害はあり得ると考え、動画では明確に王の命令とした。

 他人を信じることが出来なくなり、信ずるは自分で絶対に正しいと思う中、もしメロスが間に合ったら、王は間違っていると民衆に知らしめる事になる。

そして、啖呵を切ったメロスの気迫やセリヌンティウスの落ち着き具合は、かなり王の判断に揺さぶりをかけられたと思われる。

 動画では、王とメロス達の勝敗を分けたのは「自分自身を信じられたかどうか」とした。

 


セリヌンティウスの心情

 完全なトバッチリである。

ただ、それでも友を待ち続け、王のからかいにも毅然としていた所は、流石メロスの友、この男も大概だと思う。

激情家のメロスと友情を築くあたり基本的に穏やかな性質であろうが、振り回されても動じない図太さがあるのではないかと解釈した。

 弟子のフィロストラトス曰く(原作)、王とのやり取りは「メロスは来ます」のみだったが、そのまま忠実にすると人質の心情と王の心変わりが分かりにくい為、オリジナルで口喧嘩を入れた。

 セリヌンティウスが、狼狽せず待ち続けられた理由を「人間は弱く誘惑に簡単に流される」ことを「認めていた」ところがあると考える。

王が後ろめたい感情がない「完璧な信頼」を求めるのに対し、セリヌンティウスは「そんなものはない」と冷ややかで、信頼を貫きたい感情と裏切りたい感情のどちらも真実だとしていたのではないか。

負の感情があるから直ちに「偽物の感情」とせず、どう折り合いをつけるか、そこに目を向けていたところをセリヌンティウスの強さとした。


 また、メロス以上の苛烈さがあるという描写をした。

死を覚悟して戻るかもしれない友人に対し、自分は「来ないかもしれない」

と思う事が友情への侮辱と捉え、メロスの友として相応しくない、自分の感情がそれを許さないという表現をさせてもらった。

だからこそ、極限状態でも平静に見えたのだろう。

王への言葉にはハッタリを含めつつ、そうした思いを込めた。

 


配役

 見た目が王様っぽいので【えいき】を採用、前作の金田一作品では台詞がほぼ無く可哀想だった事もある。

メロスは押しが強そうなので【ゆうか】に、対抗出来そうな【れいむ】をセリヌンティウスに採用。

コメントでご指摘があった通り、旧東方が若干意識されていた。

 あとの配役はこの3人を軸に考え、特に深い意味はない。

【れいむ】を出す関係で【まりさ】を語りにし、映画版(1992)にアレキス視点があった所からヒントを得て二役させた。

 

【参考】原作の裸メロスについて

 太宰の原作は、裸のメロスに少女がマントを差し入れてメロスが赤面して終わる。

これは伝承にはなく太宰のオリジナルだが、ここに込められた意味は色々と考察・解釈がされている。

多くの人が語る説は、太宰の「正義に対する気恥ずかしさ」である。

 メロスの行為は言っていまえば自己中心的で、独りよがりの正義だった。

結果的に間に合うことに成功し、感動と祝福を巻き起こすことになるのだが、正義に酔うメロスに対し、少女のマントは「目を覚ませ」「見せびらかすな隠せ」という第三者的な思いがあると思われる。

 


最後に

 初めて読んだ中学生当時の私は、この作品を白々しい話だと真剣に考察しなかった。

しかし時が経ち、「信じることが救い」「信頼は正義」と押し付けようとしているのではないと感じた。

 確かにメロスは短絡的で自分勝手な人間である。

ただ、素直でまっすぐな彼の性格は友人や近しい人間からみれば、信頼がおきやすかったのであろう。

ラストの裸といい、独善的な正義に対して皮肉り茶化しながら、信頼に応えるとは何か描こうとしたかもしれない。

そう考えると、メロスが何回裏切ろうとしたとか呑気していたという事は、太宰にとって問題でなかったと思われる。

 今回は初めてのコラボ企画ということで、他のゆっくり劇場投稿者さんと同じ題材で動画を作成・投稿した。

当然だが、作風が変わり面白く、とても刺激される。

 碧い金星(馬の人)さんの「走れメロス」は、メロスの視点から正義を茶化し倒すコメディーとして翻案されている。

こちらのセリヌンティウスは色々とアレな悦びを求めているが、図太いという意味で共通している。

 


 今回のコラボ企画で実験的・挑戦的な動画作成をすることができ、私にとって非常に良い経験を得た。

このような機会を頂けたことに、改めてお礼申し上げたい。

 

 

【参考】

・太宰治『走れメロス』青空文庫

・猪瀬直樹 『ピカレスク 太宰治伝』小学館

・檀一雄『太宰と安吾』角川文庫

・檀一雄『小説 太宰治』岩波現代文庫

・太宰治が「走れメロス」の着想を得たというシルレル(シラー)の「担保」という詩を探している。│レファレンス協同データベース

・石橋邦俊『シラーの “Die Bürgschaft Ballade” と 小栗孝則訳「人質 譚詩」 』

・石橋邦俊『太宰治「走れメロス」とシラー「人質」』九州工業大学附属図書館

・杉田英明『葡萄樹の見える回廊―中東・地中海文化と東西交渉』岩波書店

・五之治昌比呂「『走れメロス』とディオニュシオス伝説」京都大学西洋古典研究会

・鈴木三重吉『デイモンとピシアス』青空文庫

・村田一真「メロスの全力を検証」2013年度塩野直道記念第1回「算数・数学の自由研究」作品コンクール 最優秀賞

【追記】コメントありがとうございます!

今後とも頑張ります!

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コメント: 1
  • #1

    ニコ動ななし (水曜日, 02 1月 2019 13:30)

    後記も面白いですね。
    あんな解釈があったなんて…、と素敵な動画に感謝です。
    今後も楽しみにしています!