恋情

渇望、憧憬、悔恨の果て――

【あらすじ】

 主人公・山名時正は旧支藩の藩主家に生まれ、父は男爵に叙されていた。

十五歳の時、初めて本家、山名伯爵の娘・律子と出会い、彼女に惹かれる。

律子も好意を寄せているようだったが、彼が愛を告白することなかった。

 二十歳になった年、某宮主催の舞踏会の席で、

時正がエスコートする律子の美貌に、ある政府重鎮が目をつける。

しばらくして、本家の山名伯爵が、時正にイギリス留学を突然提案する。

そして後に、時正は留学先で、律子が宮家に嫁いだことを新聞で知る。

 時正は一生、律子に思いを伝える機会を失った。

 


原作

作者:松本清張(1909~1992)

初出:1955年 (旧題:孤情)

   ※中間小説雑誌『小説公園』1月号

    中間小説=純文学と大衆小説の中間的な作品

収録:『悪魔にもとめる女』鱒書房コバルト新書

   『声―松本清張短編全集〈05〉』 光文社文庫

   『西郷札―傑作短編集(三)』新潮文庫(現在容易に手に入るのは、新潮文庫の『西郷札』です)

 

 1951年処女作「西郷札」が評価され、遅咲きの作家デビュー間もない頃の短編。

若い頃、芥川龍之介や菊池寛の短編に親しみ好んだことから、初期は特に短編を多く執筆した。

 

 清張が得意とする、一般的に社会的敗者といわれ、孤独で偏執な性質を持つ人間を描きながら、

陰謀、策略、破滅といった氏の作品イメージとは異なる雰囲気が全体に漂っている。

 「砂の器」や「ゼロの焦点」など映像化された作品と比べて地味だが、味わいある作風でファンが多い。



原作とスケキヨ版ゆっくり文庫の違い

登場人物の数や原作の場面カット等に伴い、大きく以下のような違いがある。

  1. 時正の性格(原作はもう少し自虐的で臆病)
  2. 執事の活躍(寺田を取り押さえる人間は原作は車夫)
  3. 同じように社会に不満を持つ者の存在(原作は荻野憲介という天涯孤独の元運動家が登場)
  4. 華族仲間(原作は特定のひとりではない)
  5. 時正が感銘を受けるもの(原作は夫を待つ女中に加え、「後見草」という随筆)

留学先の人々が未登場など細かく見れば他にも違いがあるが、上記5つについてお話したい。

 

時正の性格

 原作では所々、律子への思いや後悔、自嘲が吐露される。

しかし、それら全て再現するとテンポが悪くなるので割愛。

また、律子との結婚の期待と絶望は原作の方が大きい。

英国では傷心旅行をし、地元の人に助けられたりする。

 

 寺田と篠の逐電も、自分の責任より、国元の人間の理解がないことを責めており、読み手によっては勝手な奴だと評価されるであろう。

根はやはり元殿様である。

宮の暗殺も自分で実行することは考えず、出入りする元運動家に依頼するか否かで悩んだ。

こう書くと、男らしくないが、彼はなまじ優秀で何事も頭で考えるタイプだから、こんな回りくどい印象がある。

それが彼の行動にブレーキをかけ、結果として犯罪に走らず、穏やかな生活を手にしたのだろうと、私は思っている。

 

執事の活躍

 原作でも、執事・牧野は主人公を気遣い見守る存在だが、寺田の短刀から主人を守る活躍までは見せない。

動画ではキャストを絞った関係で執事にボディーガードさせたが、好評いただけ大変光栄である。

 

 彼は、頭の禿げた冴えない男のような見た目だが、

主人だけでなく部下の篠、国元の寺田をはじめとする人々にも思いやりと気配りを払っているような描写もあり、とても魅力的な登場人物だったので、【ゆゆこ】を通して活躍させることが出来て嬉しく思う。

 

同じように社会に不満を持つ者の存在

 動画では尺とテンポの関係で、泣く泣く削った登場人物とシーンがある。

それは、時正が政府への私怨で発表した自由民権系の政治論に感銘を受け、現在の自由党に不満を持つ旧自由党員が邸を出入りするようになり、そのうちのひとり荻野憲介と懇意になる、という一連の流れだ。

 

 荻野は民権運動で逮捕・投獄され出所後、家に戻ると妻子はおらず、天涯孤独となった男である。

彼は自分を良しとしてくれる時正に恩義を感じて「男爵のためには生命も惜しまぬ」とし、時正も宮の暗殺を彼に実行させようと考えたりもしたが、結局、荻野が病死して終わる。

 

 荻野は誰にも気付かわれず、忘れ去られようとしている人間で、終盤出てくる「夫を待つ女」の対比にもなるので、削るかどうか迷った。もし登場させるなら【もこう】を起用したと思う。不老不死だけど。

 

華族仲間

 原作だと、所々出てくる時正の華族仲間は特定のひとりではないよう見受けられる。

これもキャストを絞った結果なのだが、時正の親友のようなキャラクターが出来、執事とは違う形で彼を見守る存在がいるという救いになれたのは良かった。

 

 【れみりあ】の起用は【さくや】を起用したから、という消極的なものだったが、結果として彼女のカリスマが発揮され、説得力が増したことと、コメント等で好評いただけたのは嬉しい誤算である。

 

時正が感銘を受けるもの

 きっかけは子爵が紹介した女中だが、その後たまたま読んだ随筆「後見草(のちみぐさ)」で思いをより確かにしている。

余談だが、私は最初、こうけんぐさ、と読んでいた。恥ずかしい。

この「後見草」は蘭方医・杉田玄白の随筆で、風刺を交えながら主に明暦から天明にかけての世相を書いている。

文章が少々長い上に古語で書かれているので省略してしまったので、ここでざっくり内容を記す。

 

  鍋島家家来の坂田常右衛門は将来を約束した女がいたが、二十の歳、勤めで江戸に行き、帰国も許されなかった。

  女は舅姑と共に、常右衛門を待つことを決意。歳をとろうが、舅姑が死のうが待ち続けた。

  常右衛門が七十の歳、ようやく国元への帰国が許される。そして二人は初めて婚姻の儀式をした。

 

 時正は、「待つ」という姿勢が古今東西あるものだと、それで腑に落ちたのだ思う。

この説話を省いてしまったが、作品の魅力・説得力まで削いでしまったのではないかと不安である。

 


各々の立場と思い

 多くの作品に普遍かもしれないが、この作品の登場人物も各々の立場があり、必死に生きている人達である。

律子の父母の行動は、元大藩の主として、自分達やそれに仕える元藩士たちのために、名誉を守ることを生まれながら強いられてきたし、井藤(多分、元ネタ伊藤博文)も、新政府を盤石にするため、また家柄が上にある諸侯たちに舐められないよう努めなければならなかった。

 

 しかし、それゆえに個人の幸せを踏みにじって良いという、正当性を得る事はないと思う。時正にしても、誰かそうであって欲しいという個人の願いから寺田と篠に辛い目に合わせている。

 「コイツを不幸にしよう」と故意に行動すれば悪人だが、そんな事考えず、むしろ自分や身内のことに必死で、いつの間にか誰かを傷つけている場合が、今回の作品の敵役たちだと思っている。

主人公を含め、彼らは悪人ではないが、後ろめたい事もした。どこにでもいる普通の人間である。

 

律子の恋心

 動画では省略してしまったが、時正は律子より4歳年上である。

だから、二人が初めて出会った当時は、律子にはっきりした恋愛感情があったのかは疑問がある。

 

 本家の父親のことだから、もしかしたら「あの男が将来の夫だ」と仄めかしていたかもしれないが、私は、11歳当時の律子はそこまで強い恋愛感情ではなかったと考えている。

描写からして、兄として慕い憧れはあったと思うが、結婚云々というよりも「いつまでも一緒にいられたら」というような淡い恋心だったのではないかと思っている。

 

 成長し、それが叶わない、他の誰かと結婚しなければならぬと知った時、初めて「憧れの兄」ではなく「一人の男」として

時正を意識するようになった。離ればなれになる事も相まって、恋のうたを贈った、と私は解釈し動画を編集した。

 

時正が自殺や犯罪に走らなかった理由

 先に触れた、時正の性格も関係しているが周囲の人の存在が、どんな形にせよ、時正の想いを受け止めて、ある種の救いとなって思いとどめたように思える。

 

 まず、時正の父親。直接時正になにかしたわけではないが、婚約が反古になった際に同じように落胆していることから、息子の思いに共感し一定の理解があったと想われる。

その事実は、遠回しだが救いになっていただろう。もちろん、本家との関係強化と家の盤石化を図る狙いはあったであろうが、ショックの受けぶりからそれだけでないよう思える。

 

 これも描写は薄いが、留学先の英国で傷心旅行した際に立ち寄った漁村の夫婦。

身投げしそうなところを強引に連れ帰り、温かい料理を御馳走してくれる。

小さなことだが、こういう気遣いは身に沁みる、一応これで死なずにすんでいる。

 

 次に、執事の牧野。主人に対し健康を気遣う形で、彼が爆発しないように気晴らしを勧めている。

しかも本来なら「お世継ぎ云々」や「お家がどう」とか言って立ち直らせようとするのが家来の務めだが、そういう切り口で進言しない点から、時正の気持に寄り添おうとする姿勢がうかがわれる。

実際、時正も牧野を邪険にしていないので、この良い主従関係もブレーキの一つだっただろう。

 

 最後に、華族仲間。世間が官途につかず民権論を唱えた時正を奇異の眼で見た中、特に変わることなく接している。

政敵でないからという理由もあるだろうが、疎遠にならず、更に世相に疎い彼の質問に丁寧に答えているところを見ると、時正と世間の間を取り持つ窓口になっていたと思う。

また、知り合いの子爵に関しては、たまたまとはいえ一介の女中について話を聞かせているところから、深くは聴かないが事情を察している様子にも見える。

 

想い続け待つ、という選択

 時正は若くして西洋に学び、本家や国元の人々を「封建的」というような表現で表していることから、当時としては先進的な考えを持つ人物だったと思う。しかし、彼は奥ゆかしくも一人の女を想い続け、更には待つという古風な選択をした。

 

 合理的な考えが貴ばれる現代の感覚からすれば、「賢くない」選択とバッサリ評価されるだろう。

雲の上の存在を想い続けても何になるのか、苦しいならいっそ美しい思い出として忘れてしまえ……まあそうなのかもしれない。

実際、時正は自分の恋が一方的に切られ結婚という形で実を結ばなかったこと、律子が宮との結婚で不幸だと知ると、相思相愛であるのに自分達が遠慮しなければならない現状に、それぞれ怒りを持ち苦しんでいる。

もし、誰かと愛し合った末に、家庭を持ち共に暮らしていく事を強く願うなら、早々に諦めて違う恋を見つければいい。

 

 しかし、時正の中ではそうした願いより、律子が優先だった。

世の中には素晴らしい人はたくさんいる、その人とも幸せな人生をおくることが出来る――それは至極当然だが、律子と共に実現できない幸せはいらないし、その結果に破滅してもいいと彼は本気で思っていた。

周りから見れば異常だが、それほどの激情を抱えていたのだと思う。

こうなると世間がどうこうの理屈は彼には響かない。

 

 誤解してもらいたくないのは「一人を想い続けるのは素晴らしくて、そうでない生き方は低俗」と言いたいわけではない。

叶わぬものに見切りをつけ前に進む生き方も潔く、美しい生き方である。

私は生き方に上も下もないと申し上げたい。

そして、懸命に生き、考え抜いて選んだ道なら一般常識や世間の声と異なっていても歩んでいいのではないか。

多少の周りの迷惑は考える必要はあると思うが、そこに触れぬ範疇であればそれくらい許されてもいいと思っている。

 

最後に

 私は大した恋愛をしたことがないし、結婚向きの性質をしていないので、ここで述べた恋愛に関する考えは、世間一般でないことを断っておく。本当に申し訳ない、すまんかった。

 

 そんなんでも、もし律子が心変わりしてしまっていたら、誰も時正を肯定してくれなかったら……彼は破滅して終わり、こんなに静かで激しい恋の物語は成立しないということだけは分かる。

ほんの些細な出来事や出会いが良い影響を及ぼしたことで、最終的に二人だけの愛の形を作り出した。

 

 物語だから上手くいったかもしれないが、彼らが願い努力した結果に手にした愛だったと思っている。

 

 

【参考】

・松本清張『西郷札 傑作短編集(三)』「恋情」新潮文庫

・「松本清張」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

・『松本清張短篇総集』講談社・『松本清張全集 第56巻』文藝春秋

・『世界大百科事典』平凡社「後見草(のちみぐさ)とは」コトバンクより

・近藤瓶城『史籍集覧』第十七冊 杉田玄白「後見草」国立国会図書館デジタルコレクションより

 

 

追記:コメントありがとうございます!

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    無知 (火曜日, 06 11月 2018 23:07)

    とってもよかったです

  • #2

    ニコ動ななし (木曜日, 03 1月 2019 18:01)

    『誤解してもらいたくないのは』からのup主さんのご感想がよい…。そうですよね。同じ気持ちです。

    編集後記も読み応えあって楽しいです。
    松本清張の作品は動画にすると、面白いものが沢山ありますね。
    次回も期待しております。今回の動画がよくて、テレビの松本清張ドラマも観たくなりました